ジョン・ダンの生涯
ジョン・ダンはロンドン に生まれた。時期は、1571年の末か1572年1月から6月19日の間のいつかとされる。6人いる子供 の中で上から3番目だった。父親はウェールズ系で、名前は同じジョン・ダン。シティ・オブ・ロンドンで金物屋の管理人をしていて、カトリック教徒だった。その父親が1576年 に亡くなり、母親エリザベス・ヘイウッドが子供たちを育てなければならなくなった。エリザベスは劇作家ジョン・ヘイウッド(John Heywood)の娘で、兄弟に翻訳家でイエズス会士のジャスパー・ヘイウッド(Jasper Heywood)がいて、やはりカトリック教徒だった。カトリックの有名な殉教者トマス・モアの妹の孫でもあった。殉教の伝統はなおもダンの近親者 の間で続いていて、多くの人が宗教的理由のために追放されていた。それにもかかわらず、ダンはイエズス会の教育 を受けさせられた。エリザベスは夫の死の2、3か月後に、裕福な男やもめで13人の子供を持つジョン・シミングス博士と再婚した。翌1577年、ダンの妹で母親と同名のエリザベスが亡くなり、さらに2人の姉妹メアリーとキャサリンも1581年に亡くなった。ダンは10歳 になる前に、4人の肉親の死を経験したわけである。
ダンは11歳でオックスフォード大学ハート・ホール(現オックスフォード大学ハートフォード・カレッジ)に入学した。そこで3年間学んだ後、ケンブリッジ大学に移り、さらに3年間学んだ。しかし、ダンは学位を得ることができなかった。理由はダンが卒業に必要な「国王至上の誓い(Oath of Supremacy)」を拒否したからだと言われている。1591年、ダンはロンドンの法曹院の1つセイヴィス・インの法学院に入った。1592年には別の法曹院リンカーンズ・インの法学院 に移った。1593年、弟のヘンリーがカトリックの僧侶を匿った罪で逮捕された。ヘンリーは腺ペストのため獄中で死に、ジョン・ダンはカトリック信仰に疑問を抱き始めた。
それからのダンは、在学中・卒業後、女性・文学 ・レクリエーション・旅に多くの時間を費やすようになった。ダンがどこに旅行したかは詳しい記録 は残っていないが、わかっているのは、第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーやサー・ウォルター・ローリーとともにカディス(1596年)ならびにアゾレス諸島(1597年)でスペイン軍と戦ったことである。この時、ダンはスペインの旗艦サン・フェリペ号が乗組員ともども沈没する現場を目撃している。1640年にダンの伝記を書いたアイザック・ウォルトンによれば、「彼は数年イングランドに戻らなかった。最初はイタリアに、それからスペインに滞在し、そこで彼はその国の政府の法と慣習を有意義に観察し、その国の言葉を完全に習得してから帰国した」ということである。
こうしてダンは25歳になるまでに外交官 になれる経歴を積んだ。それから国璽尚書サー・トマス・エジャトン(Thomas Egerton, 1st Viscount Brackley)の第一秘書に任命され、イングランド社交界の中心ホワイトホール宮殿に近いエジャトンのロンドンの屋敷ヨーク・ハウス(York House, Strand)に住んだ。そこで4年間働いている間に、ダンはエジャトンの17歳になる姪(14歳、16歳という説もある)アン・モアと恋に落ちた。2人は1601年、エジャトンとアンの父でロンドン塔長官代理のジョージ・モアの反対に遭いながらも、ひそかに結婚した。このことでダンのこれまでのキャリアは台無しになったばかりか、2人を結婚させた司祭、結婚式の立会人を演じた男とともにフリート監獄(Fleet Prison)にしばらく投獄 されてしまった。結婚が合法的と認められ釈放されたが、ウォルトンによれば、ダンは妻に宛てた手紙に、「John Donne, Anne Donne, Un-done(ジョン・ダン、アン・ダン、おしまいだ)」と書いたという。ダンが義理の父と和睦し、持参金を受け取ったのは1609年になってからだった。
釈放後、ダンはサリーのパーフォード(Pyrford)という田舎に引っ込んで生活することを余儀なくされた。それから2、3年、ダンは弁護士として貧乏暮らしをし、妻の従兄弟のサー・フランシス・ウリーの世話になった。アン・ダンはほぼ毎年のように子供を出産したので、ウリーの好意はとても気前の良いものだった。
ダンは弁護士のかたわら、トマス・モートン(Thomas Morton)の小論文執筆者助手もしていたが、家族が増えるばかりで生活は常に不安定だった。アンとの間に12人の子供を儲けた(うち2人は死産)。長女コンスタンス、長男ジョン、次男ジョージ、三男フランシス、次女ルーシー(ダンの後援者で名付け親のベッドフォード伯爵夫人ルーシー Lucy Russell, Countess of Bedfordにちなんで命名された)、三女ブリジット、四女メアリー、四男ニコラス、五女マーガレット、六女エリザベスである。このうちフランシスとメアリーは10歳になる前に亡くなったが、ダンはその埋葬費を工面することができなかった。この時期ダンは大胆な自殺の弁明『ビアサナトス(Biathanatos)』を書いたが出版はされなかった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ジョン・ダンは、イングランドの詩人で、イングランド国教会の司祭になった人物です。